2016年の振り返り

2017-11-02T20:32:06+00:002016年12月29日|Categories: 日々, 経済・社会|Tags: |

なるなるとは聞いていたんですが、今年もやっぱり年の瀬になり、仕事納めや帰省でちょっとゆったりモードになりつつも、お正月の準備やらで慌ただしくもある、年末の東京っぽくなってきました。 今年も終わりということで、2016年を振り返って何か一筆残しておこうと思い立ったわけですが、普段ろくに更新しないくせに振り返りだけは毎年やるなと、自分は後ろ向きな人間なのかと思って履歴を辿ってみたら、去年は一切何も書いておらず、記憶力の減退を憂慮せざるを得ません。 今年はというと、何より法人化したことが最大のトピックです。2014年7月7日にフリーランスとして独立をし、いろいろな方にお世話になって何とか2年を過ごし、今年の同日に渋谷税務署に届け出を出した暑い夏の日は、おそらく生涯でも大きなターニングポイントとなることでしょう。 事業面では、引き続きさまざまなお仕事に関わらせて頂き、多くの素晴らしい方と出会えたことで充実したものとなりました。ここに御礼申し上げます。 一方で、世の中とは予想以上に魑魅魍魎が跋扈しているのだと思い知ったのも今年でした。これも私の経験不足がゆえなのですが、社会人となって以来、いわゆる東証一部といった大手企業にしか勤めた経験がなく、それら企業はもちろん新しいビジネスを興して業績を伸ばしていく側面はあるのですが、それと同じほど既存ビジネスの毀損を防ぐ、要するにコンプライアンス遵守に重きを置いており、「ヤバイこと」や「やっちゃいけないこと」に対し、経営陣やお偉方はもちろん、末端の社員も敏感だったというのがあります。 しかし自分が中小企業になってみて、このステージにいる人たちは「失うものがない」とばかりにイケイケドンドンなのだと思い知りました。それも、ブラック企業よろしく社員に猛烈に働かせるとかいうレベルではなく、明らかに法律の隙間をぬって明確に人を騙しにいく、要するに限りなく黒に近いグレーな詐欺行為を働く企業が本当に数多く存在するのだと知りました。 多くの人が嫌う「ITのめんどくささ」を解消することは対価をもらうに値する価値だと思いますが、中には狡猾に金を奪いにいく集団が本当に多く存在していますので、皆さん本当にお気をつけください。私自身や会社が騙されたわけではないんですけども。 ミクロな視点ではそんなところですが、一方で世界に目を向けてみると、やはり印象深いのはイギリスのEU離脱(Brexit)と、ドナルド・トランプさんの当選ではないでしょうか。 世界中で行けない場所はないほど交通網が発達し、インターネットが時間と距離をゼロにし、世界中の人が多くの価値を共有できる日が来たのに、それがもたらしたのが、さらなる貧富の拡大と排他的な傾向というのは、皮肉以外の何ものでもない気がします。 ジェレミー・リフキンの『限界費用ゼロ社会』が出版されたのがちょうど1年ほど前で、これ自体は名著でお時間があればぜひオススメなのですが、リフキンさんが示唆する世界にたどり着く前に世界は違う圧力、貧しさによる民衆の蜂起だったりうねりだったりによって大きく変えられてしまいそうな、フランス革命のような何かが起こりそうな気配もあります。 特に今回のトランプさんの当選により、アメリカの国力(特に外交力)は弱まらずとも強まることはない、強めるわけにいかない状況に陥りそうで、そうなると間隙を縫ってロシアが台頭してくるのは目に見えており、必然的にシリアや中東問題はより解決困難になることを考えると、果たして世界情勢は良い方向に向かっているのだろうかという懸念が残ります。「そんなの知ったこっちゃねえよ」ってみんなが思ってるから今の状態があるのかもしれませんが。 話が壮大になりましたが、今一度自分の専門分野に戻ると、今年は「AI」と「VR」がホットなワードだったかなと思います。両者は来年以降もテック系の中心にいるでしょうし、動画マーケットなど含め拡大することは間違いないわけで、何とかその大きな渦潮の中にかじりついていきたいなとは考えております。 振り返ると言いつつ未来、かつ漠然とした話ばかりとなり、まさに便所の落書きと相成りましたが、とにかく言いたいことは今年もありがとうございました、来年もよろしくお願いします、ということです。

裁判で争われているのは、そのほとんどが「心」の問題だという話

2016-04-03T19:41:33+00:002016年4月3日|Categories: 日々, 経済・社会|Tags: |

先日、とある方と食事した際に出た話題。 私は、「裁判」というと「有罪か無罪か」をテーマに議論していると認識していた。報道などを通じて触れる裁判の世界も、多くは冤罪や、現行犯に近い形で逮捕され、傍目からでも有罪がほぼ間違いないと思われる凶悪犯の話題が多い。 もちろんそれはメインではあるものの、しかし実際の裁判の現場で争われるのは「心」の問題だという。 砕けた表現を使えば、「やったかやってないか」は大方の場合で決まっており、明らかな証拠が揃っている中で「やってない」と言い張ることはほぼないらしい。 では裁判とは何をする場かというと、大抵が「やったけどわざとじゃない」という点を争うのだそうだ。 たとえば殺人事件なら、「殺したか殺してないか」ではなく、「殺したけど殺そうとは思ってなかった」と主張することがほとんどで、これが認められれば減刑される。「どれだけ減刑させられるか」が弁護士の手腕であり、その逆が検察官のそれだ。 これはどんな裁判でも争われる重要な焦点だが、特に顔見知り間でのレイプが難しいそうだ。レイプというと、多くの場合女性が見知らぬ男に突然襲われるというケースを想定しがちだが、割合的には身内、配偶者や交際相手などからの被害が圧倒的だ。 内閣府男女共同参画局:男女間における暴力に関する調査 その上で、実際に裁判となると、原告側には「合意(和姦)だったか否か」が厳しく追求され、原告側が「合意ではなかった」という証拠を提出しなくてはならない。そう考えると、なんと約25%の女性がそのような経験を持つというのに、実際に裁判にまで至るのは極端に少ないのもうなずける。 たしかに、夫婦間のレイプを犯罪とするのは、素人目にも相当ハードルが高そうだと感じる。実際に、長年夫婦間のレイプが有罪として認められた判例で著名とされているのが、32年も前の昭和59年の広島での事件だ。これだって、内容をよく確認してみると、被告のDVから逃げた原告に対し、被告が友人とともに輪姦するという、事実であれば酌量の余地もない完全な犯罪である。 配偶者間での強姦を成立させた裁判例等 もちろん、これ以降にも有罪が成立したケースはあるだろうが、それ以上に、(レイプの場合ほとんどがその被害者であるという意味で)多くの女性は泣き寝入りしているのであろう事態は容易に想像がつく。 話が逸れたが、もし自分がこのような「心情」を争う事件の裁判員になったとして、有罪無罪を見極める自信はまったくない。心情的にはやはり弱い立場に加担してしまうだろうし、とはいえ無実の罪を着せるわけにもいかない。誰も見ていないセックスが合意だったか否か、が他人にわかるだろうか。 まぁこれは裁判員制度の問題ではなく、「人を裁くのも結局人だよね」ということに帰結するので、解決というか、誰もが納得する方法としては、100%絶対に間違いのないウソ発見器を作る、ということにしかならないだろうけども。

グレン・フライが死んでしまった

2016-01-19T21:05:21+00:002016年1月19日|Categories: 日々|Tags: |

「一番好きなバンドは?」と聞かれると、僕はいつも「うーん」と少し考えた素振りを見せてから、「イーグルスかな」と答えていた。 相手がその名を知っているかもわからないし、まぁ答えとしてはあまりかっこよくはない、少なくとも女の子にモテそうな模範解答ではない。 彼らを意識して聴きはじめたのは、1994年の「Hell Freezes Over」というアルバムからだった。当時僕は17歳で、ラジオからたまたま流れてきた「Get Over It」という曲がとにかくかっこよくて、すぐにCD屋さんに走ったのを覚えている。 もちろん、あの「Hotel California」や「Tequila Sunrise」を作った人たちだとは知っていたんだけど、そのライブアルバムのあまりの完成度というか、歌と演奏のうまさに驚嘆したものだった。 僕はすっかりイーグルスの虜になり、東京ドームで行われた再結成ツアーにも一人で足を運んだ。17歳の高校生が、50がらみのおじさんたちに囲まれたわけだ。 今でこそ慣れてしまったが、あのライブが始まる前の雰囲気は忘れることができない。5万人がワサワサと話している声、BGMが途切れるたびに囃し立てる歓声と口笛、そして、客電がパッと消えた瞬間に全員の期待がステージ中央に注がれる瞬間は、当時の僕にはしびれるような体験だった。 1曲目から「Hotel California」のイントロがはじまった時のあの地響きのような光景は、いまだに思い出すことができる。 彼らはその後、2回日本に来たはずだ。僕はまた東京ドームに足を運び、ステージが豆粒みたいにしか見えなかった高校生の頃よりもいい席で彼らのステージを観た。 その時のツアーの名前は「Farewell I Tour」。もう50代後半だった彼らのステージを日本で見られるのは、おそらくこれで最後だろうと思っていた。グレンはステージ上で、「Farewell tour(さようならツアー)という名前だけど、Farewell I Tour(さようならツアーの1回目)だからね」とおどけていたものだった。 その7年後、彼らはなんと新作まで発表しやってきた。僕は大枚をはたいて、彼らを間近で観られるチケットを購入した。 とにかく覚えているのは、あのハンサムなドン・ヘンリーがえらく太ってしまったこと。まぁちょっとショックではあったけども、今考えれば健康的でよかったのかもしれない。 もともと、ルックスはパッとしないんだ。はっきり言って芋臭い、ネルシャツにジーンズで歌う、いかにもアメリカのレッドネックという感じだった。 イーグルスは、ほぼ全員がボーカルをとれる稀有なバンドだった。キャリアのすべてを通して、リード・ボーカルはドン・ヘンリーであることに疑いはないが、グレンも、ジョーも、ティモシーもみな超一流に歌も演奏もうまく、一人でいくつもの楽器をこなすプロ集団だった。 特に彼ら全員がハーモニーを聴かせる「Take It to the Limit」という曲には、ライブに同行したイーグルスをあまり知らない友人が、鳥肌を立てて興奮していた。まるで機械で奏でているように正確無比、それでいて圧倒的なライブ感で迫る、まさにロックバンドとしての完成形を観た。 成長してようやく少しずつ英語を覚えて、彼らの歌詞を改めて味わってみると、その真の意味に気づくことができた。陽気で明るく、西海岸の乾いた風のような音の影に、アメリカ社会が抱える闇や、人間の卑屈さやずる賢さへの深い洞察が散りばめられていた。西海岸の乾いた風は、急にヌメッとした、夏の終わりの由比ヶ浜みたいな、人間臭い感触に変わった。 グループの中で一番明るく、いつもにこやかで、気さくなおっさんだったグレン。しかしイーグルスファンの僕から見て、彼は多分性格が悪かったと思う。もちろん、ステージでそんな素振りは見せないけども、やっぱりなんとなくわかる。彼は頭がよく、才能に溢れていたが、おそらくグループのドン・ヘンリー以外のメンバーには、皇帝のような振る舞いをしていたはずだ。ドン・フェルダーが突然クビになって裁判にまでなったけども、あれだって絶対グレンが独断で決めたに違いないんだ。 イーグルスのファンだとか言っておきながら、僕は彼が病の床に伏せているのを今日まで知らなかった。なんでも、関節リウマチ、大腸炎、それに肺炎に悩まされていたという。それは苦しかったことだろう。おそらく、死よりも辛い闘病生活だったに違いない。月並みだけども、ようやく彼は苦しみから解き放たれたのかもしれない。 ここまで言っといてなんだが、僕はイーグルスの曲をあまり頻繁に聞かない。ずっと溜め込んで、聴きたくて聴きたくてたまらなくなるまで我慢して、「Desperado」の掠れた声とか、「New Kid in Town」の明るいんだか暗いんだかわからない世界観に浸るのだ。 それは多分、彼らの曲に飽きてしまうのが怖いからだ。僕は一生イーグルスを聴き続けたくて、聴きたくてたまらなくなった時に、体中の細胞に染み込ませるように取り入れるんだと思う。 グレン・フライが死んでしまった。今日は聴きたくてたまらない日だけども、泣くからやめよう。

SMAPは解散して、YouTuberになってくれないかな

2016-01-17T00:45:46+00:002016年1月17日|Categories: 日々, 経済・社会|Tags: |

事実は知らないので、一連の報道を全部鵜呑みにした前提だが、SMAPのメンバーが事務所を辞めたいということで揉めているらしい。 誰が辞めて誰が辞めないのかはどうでもよい。また、別々の事務所になることでSMAPという名称やグループ活動ができなくなることも致し方ない。 しかしもし事務所を辞めた場合、全力で各方面に圧力をかけ、エンタメの世界から抹殺しようとしているという報道が事実だとしたら、なんというヤクザ稼業か。 芸能の世界には「興行師」をはじめ、そっちの人たちが幅を利かせているのは事実だろうが、それにしたってやり方が不味すぎないだろうか。これが一般の企業なら、たとえば社員が競合他社に引き抜かれたとして、そのせいで個人的に圧迫を与えたりしたらほぼ犯罪だろう。 それだけ芸能の世界が狭いということかもしれないが、とにかくそんな慣習がまかり通っているような業界は普通ではない。 だからSMAPはもう解散して、解散しなくてもいいんだけど、テレビをはじめとした魑魅魍魎渦巻く世界を飛び出し、ネット配信とかで活動したらいいのにと思う。彼らほどの人気があるのなら、おそらく今と同じかそれ以上の対価も稼げるだろう。 日本のテレビ業界や芸能事務所のしがらみの中で器用に泳ぎ回らなくても、実力だけで勝負して結果を残せる世界が既にある、ということを彼らが示してくれたなら、日本のエンタメ界全体にとってもいいことなんじゃなかろうか。

「最初はグー」がもたらす経済的損失

2015-10-20T23:06:59+00:002015年10月20日|Categories: 日々, 経済・社会|

重ね重ね思うに、ジャンケンというのは素晴らしい発明である。Wikipediaによると、その誕生は19世紀後半と意外と浅いものの、これから何世紀を経ても、それがなくなるとは思えない。 まず評価できるのが、その公平性だ。基本的に、手の平さえ動けば誰でもこの勝負に参加可能。容姿や富、体力や政治力など、ジャンケンの前では無力だ。人間が高度に進化し、頭髪や体毛がなくなって、よしんば指が6本や10本になったとしても、グーチョキパーの形態は失われないだろう。 たとえ、何らかの理由で手が使えない場合も、声や足、なんだって代用できる。ジャンケンの機能性の真髄はそこにはないのだ。 ジャンケンが真に美しいのは、「三すくみ」という様式である。わずか三種類の「手」は、明確な強弱属性を持ち、完璧なバランスを保っている。 しかし、実際の勝負を行うにあたり、これが完全に運に委ねられるかというとそうでもない。「二手前はグー。一手前もグー…… となると、次にグーを出す確率は……」。ジャンケン中の脳では、そんなヒリヒリする思考活動が繰り広げられているのだ。そうは言っても、突き詰めていけば結局運ではないか。いやしかし…… この堂々巡りである。ジャンケンは深い。 その素晴らしきジャンケンに対し、しかし近頃気になることがある。それは「最初はグー」という慣習に対してである。 あなたはここ最近ジャンケンをしたろうか。その時、「最初はグー」と言わなかったろうか。今一度、胸に手を当てて考えてみて欲しい。本当に「最初はグー」は必要なのかどうかを。 現代のジャンケン事情を鑑みるに、「最初はグー」はジャンケンとほぼセットだと言って良い。いきなり「ジャンケン……」とやろうものなら、「最初はグーでしょ!」と怒られかねない始末だ。そんなことはどうでもよい。ただジャンケンをしたいだけなのに。 くだらない話だと吐き捨てたくなる気持ちはわかる。私もそう思う。最後まで何の結論もない。 しかしこれは、日本人の思考能力の衰えが生まれる可能性において、意外と重要な問題かもしれない。ジャンケンの醍醐味は「ジャン、ケンッ……」というコンマ何秒の間に思考を巡らせるところにある。相手の性格、クセ、生まれ育った環境、価値観、恋愛観、血液型、兄弟何人いるのか、芸能人で言うと誰に似てると言われるか、初デートにはどんな所に連れて行ってもらいたいのか……そんな数多くの要素を取捨選択しては、3種類の手から1つを選択する高度な思考活動だ。 ここまでのことを一瞬で考えるわけだから、脳への負担は尋常でない。その面で「最初はグー」をクッションとして入れたい気持ちは重々理解できる。 しかしどうですか。それによって、我々の反射的思考力はどんどん衰えていませんか。人間は、放っておく楽な方に傾いていきますよ。すぐタクシー乗っちゃうし。 我々はそろそろ、ジャンケンのたびに発生する「最初はグー」の1秒あまりが、無為な時間であることを認識すべきだ。人生であと何回ジャンケンをするか分からないが、その積み重ねは3、4年になるはずである。これはもうちょっとした懲役だ。人生は短い。一生のうち3年を「最初はグー」と過ごして、果たして君はいいのか。

不動産屋さんも物件をネットで探しているような気がする件

2015-10-13T21:09:10+00:002015年10月13日|Categories: Webサービス, 日々|Tags: |

最近、不動産物件を探す機会がかなり多い。ネットで条件を入力し、気になる物件があれば不動産屋さんに問い合わせる、というごく普通の流れである。 一昔前は、不動産屋さんがネットに載せているのはほんの一部で、いい物件は隠し持っているなんていう噂があった。もっと言えば、掲載しているものは実は存在せず、店舗に引き寄せるためのエサだなんて噂もあった。 しかし実際にはそんなことはない。ほぼすべての物件は内見できる。 一発でいい物件が見つかるなんて中々ないので、当然断ることになる。そうすると、不動産屋さんは決まって「条件を教えてもらえればお探しします」という。まぁそりゃそうだ。 しかしその後に送られてくる情報というのが、ほぼ100%すでに見ているものだ。探しているエリアや条件をかなり絞っており、各大手不動産サイトに登録しているせいかもしれないが、それにしても「これとっくに見たよ」の繰り返しだ。 プロが見ているのがまさか検索サイトではないだろうけども、少なくともデーターベースは同じなのではなかろうか。タイムラグがあるとしたら、大家さんから仲介依頼が来てそのDBに登録する間くらいか。ましてや、不動産屋さんだけが見られるヒミツの情報なんてものは存在しない気がする。隠してたところで、何も得しないし。 もし本当にそうだとしたら、今回のように、条件が明確に決まっていてネットで日々確認できる余裕がある人にとっては、不動産屋さんを介す意味が、部屋の鍵を開けてくれるだけになってる感がある。 もちろん、個人がいきなり大家さんに「部屋見たいから鍵貸してください」というわけにもいかないから、不動産屋さんは必要だろう。しかし、「部屋を荒らさない」とか「合鍵を勝手に作って住んじゃわない」とかいう担保さえ握れれば、貸主と借主が直接やり取りする方が手間の面で有利だ。検索も内見も勝手にやるから手数料は半額、とかがあれば、不動産屋さんもビジネスの幅が広がるはずだ。立ちいかなくなるところもあるだろうけど。 さすがに不動産は高額だから契約の障害も高いだろうが、たとえばFacebookの友だちの友だちなら簡単な契約でいいよ、とかになる日が来ないだろうか。いろいろ法律が厳しいのかな。

『じゅん散歩』が適当すぎて最高すぎる

2015-10-01T20:29:36+00:002015年10月1日|Categories: 日々|Tags: |

地井武男さんの『ちい散歩』、加山雄三さんの『ゆうゆう散歩』に続く形で始まった、高田純次さんの『じゅん散歩』。 『元気が出るテレビ』はもちろん、『当たって砕けろ』のいい加減すぎる司会ぶりが大好きだった自分としてはこれはもう見逃すわけにはいかず、HDレコーダーの限界である2週間前には予約を行い、念のためグーグルカレンダーにも登録してその開始を待った。 そしてその第1回目は、本当に期待を裏切らない最高すぎる内容で、思い出してもニヤニヤしてしまうほど。 以下、放送1回目の適当発言。 (ロケ開始時に雨が降っていたため) 「朝起きたら雨だったんで来るのやめようと思ってたんですけど、そうはいかないですよね」 (目の前をバスが通り) 「この番組「散歩」ってついてるけど、いきなりバス乗っちゃいましょうか?」 (とある会社が無料ノベルティをあげようとしたら) 「もらえるものに、現金っていうのはないんですか?」 (その会社の人が興奮して社長を呼ぼうとすると) 「別にそこまで興味はないんだけどね」 (喫茶店のメニューを指して) 「これお金と交換で食べられるんですか?」 (お昼時に出会った男性二人組に対し) 「ちょうどお昼だけど、君たちもうお昼済ませたの?」 「(男性二人、嬉しそうに)い、いえ、まだです!」 「そうなの。じゃあ2人で行ってきたら?」 などなど、たった1回の30分番組、正味20分程度に詰め込まれた適当発言の爆撃。放送は週1回だと勘違いしていたのだが、なんと月〜金だそうで、これからこれだけのために生きていけるとさえ思える自分がいる。

自分の動きが俊敏でないことを知っているおばあちゃん

2015-09-14T23:50:56+00:002015年9月14日|Categories: 日々|Tags: , |

帰り道、家の近くのコンビニに寄った。ビールやら何やらをカゴに入れてレジに向かうと、おばあちゃんが会計をしているのが見えた。 おおよそ70代くらいだろうか。名前は知らないけども、小さいショッピングカートみたいな、スーツケースの簡易版みたいなのを手にしていた。僕はそのおばあちゃんを何度かその店で見かけており、そのカートがないとうまく歩けないのであろうこと、そしてそれをとても気にしており、周囲にとても気を遣う人だということを知っていた。 予想通り、会計を終えてもカートに商品を詰めたり移動することに少し時間がかかってしまう。おばあちゃんは焦りながら、後ろに並んでいる僕に、少し苦い笑顔で何度も「ごめんなさいね」と謝る。 すると、僕が並んでいたことに気づかなかった人が、おばあちゃんの次にスッとレジに入ってしまった。おばあちゃんはそのことに気づき、「すみません、ごめんなさい」とまた何度も謝った。今度は笑顔でなく、真顔で。 おばあちゃんの動くスペースを作ろうと少し離れて立っており、棚の死角に入っていたため、その人は別に悪くない。実際、レジ打ちをしていた店員さんが一瞬こちらに目配せをした時、その人も「あっ」というような表情をしたのだ。 しかしその一部始終を感じ取っていた別の店員さんが機転を利かせ、すぐに他のレジを開けてくれたおかげで、何事もなくすべては終結した。 登場人物の誰も悪くない。しかし、誰も得しなかった。全員がそれなりに他人のことを思って行動したのに、結局一番優しく周囲に気を配っていたおばあちゃん一人を傷つけてしまった気がして、なんだか切ない。 昔、松葉杖をつきながら荷物を持つのに難儀していた人を見かけて、思わず「持ちましょうか、杖」と言ってしまった人を見かけたことがあるが、優しさを発露するということはとても難しいものだと改めて感じた。

文章を書けば書くほど、母国語が英語であればと思わされる

2015-08-16T23:29:46+00:002015年8月16日|Categories: コミュニケーション, 日々|

その善し悪しは置いといて、一応文章を書いて対価を頂く生活をしている。 そして当然ながら、それらのほとんどは日本語だ。ひたすら2バイト文字を叩いてスペースキーで変換する度に、あぁ母国語が英語であったらなと思うことがある。 それは親指が痛いからではなく、発信する先が常にインターナルであるという葛藤があるからだ。 絵やスポーツと同じで、文章も書くほど上達する。これは間違いない。自分に置き換えても、書く度にその練度は上がっているはずだ(そうでないとマズい)。しかしそうだとしたら、私が日々うまくなっているのは「日本語」という、世界で70人に1人しか理解できないニッチな言語であるというジレンマがつきまとう。どんな種目でもオリンピックに出て金メダルをとるのはすごいけども、どうせなら陸上100mで勝負をしてみたかった、というようなそんな気分である。 勉強すりゃいいだけだろ、というのは至極もっともな意見で付箋に書いてディスプレイに貼りたいくらいなのだが、しかし生まれた時からの母国語としているか否かの違いは、想像以上に厳然としてそこにある。私が今後どれだけ勉強して英語の文章力を上げていったとしてもそこには限界があり、努力ではどうしても越えられない壁がある。例えて言うなら、今からいくら練習してもプロ野球選手にはなれないのに近い。 たとえば山本周五郎が英語圏に生まれていたら、彼の作品はもっと多くの人に読まれていただろう。たとえばカズオ・イシグロがあのまま日本で育って作家になっても、もちろん素晴らしい作品を書いたろうが、今ほど世界中で評価されていないはずだ。確かに、原文より優れた翻訳や翻訳家がいるのは事実なのだけどもそれは別として、書き手が一文字単位で魂を込めて書いたり削ったりした文章を、多言語にすべて正確に再現できるとは私は基本的に思っていない。 なので、優れた日本人作家や文章家を見るたびに、この人が英語圏に生まれていたらどうなっていたろうと想像してしまう。もっと多くの人に読まれ、評価されていたのではないかと。作家にとってもっとも重要なのは感性やものの見方だろうが、その表現手段としての言語に何が使われても違いはないだろうから。 言葉や宗教、文化的背景が異なる人と接する際にもっとも重要なのは、自身のそれにどれほど造詣が深いかであると言われる。同じように、言語と文化は切り離せない関係にあるのは間違いない。日本人の感性は日本語でしか表現できないだろう。 しかし、Webの登場などで狭くなった世界の中で、言語を単純な伝達手法、「記号」としてのみ捉えるのであれば、最大派閥に加わることで被るデメリットはほぼない。確かにその分ライバルも増えて競争は激しくなるかもしれないが、はじめから競技に参加していないのとはやっぱり違う。 結論、「英語の勉強は大事」ということをネチネチと回りくどく言っただけに過ぎず、こんな後ろ向きなことを表明したところで何の利も得ないしむしろ今後の仕事に響くのではないかとビクビクしているが、まぁそれはそれでいいのである。

女子力とGirl Power

2017-11-03T14:03:15+00:002015年1月31日|Categories: コミュニケーション, 日々, 経済・社会|

スパイス・ガールズが「Girl Power」という言葉を流行らせたのは90年代のことだったが、これを無理やり直訳すると「女子力」だろうか。メラニー・チズムの右肩にも「女力」というタトゥーがあったし。 ただ、スパイス・ガールズが言った「Girl Power」は、「(男や社会に頼らず)独立して生きていく女性」、といったようなフェミニズム的なスローガンだったが、日本語の「女子力」は、どちらかというと「女の子らしさ」とか、「かわいらしさ」という趣が強く、言ってしまえば「男に好かれる能力の高さ」といったような意味で、Girl Powerとはまるで正反対である。 スパイス・ガールズは日本でも非常に人気が出たけども、結局彼女たちが提唱したこの「Girl Power」という概念だけは、ごっそりと抜け落ちたように定着しなかった。 その代わりかは分からないが、「女子力」という言葉が定着してはや数年。今では年代を問わない共通語と言えるのではなかろうか。 そしてこの言葉が面白いと思うのは、むしろ女性が好んで使っているように見えるからだ。 「私って女子力ない」 「○○ちゃんは女子力高いよねぇ~」 というような感じで。 これを紐解いていくと、日本の性差別につながる根の深い問題なのかもしれないけども、日本の女性は、そういった「女性らしさが重視される社会」という共通認識に対しやや斜に構えて、アンチテーゼ的な姿勢をちょっと遊んでいるような感じもある。この発言自体が女性差別だと気分を害される方もいるかもしれないけども、もちろんそんなつもりはなくて、そういった「場を支配する空気に対する自虐を楽しむ」みたいな日本の独特の文化は、結構面白いなと思う。 では、Girl Powerに変わるような日本語があるかというと、単語としてはちょっと見当たらない。言葉がないというのは、一般的な共通認識を持てないからだと思うので、そういった言葉が生まれればいいなと思うし、そのうちそんな言葉すらも死語になるような時代が来ればとも思う。 何だかまとまらなかったが、まぁいいか。