「最初はグー」がもたらす経済的損失

重ね重ね思うに、ジャンケンというのは素晴らしい発明である。Wikipediaによると、その誕生は19世紀後半と意外と浅いものの、これから何世紀を経ても、それがなくなるとは思えない。

まず評価できるのが、その公平性だ。基本的に、手の平さえ動けば誰でもこの勝負に参加可能。容姿や富、体力や政治力など、ジャンケンの前では無力だ。人間が高度に進化し、頭髪や体毛がなくなって、よしんば指が6本や10本になったとしても、グーチョキパーの形態は失われないだろう。

たとえ、何らかの理由で手が使えない場合も、声や足、なんだって代用できる。ジャンケンの機能性の真髄はそこにはないのだ。

ジャンケンが真に美しいのは、「三すくみ」という様式である。わずか三種類の「手」は、明確な強弱属性を持ち、完璧なバランスを保っている。

しかし、実際の勝負を行うにあたり、これが完全に運に委ねられるかというとそうでもない。「二手前はグー。一手前もグー…… となると、次にグーを出す確率は……」。ジャンケン中の脳では、そんなヒリヒリする思考活動が繰り広げられているのだ。そうは言っても、突き詰めていけば結局運ではないか。いやしかし…… この堂々巡りである。ジャンケンは深い。

その素晴らしきジャンケンに対し、しかし近頃気になることがある。それは「最初はグー」という慣習に対してである。

あなたはここ最近ジャンケンをしたろうか。その時、「最初はグー」と言わなかったろうか。今一度、胸に手を当てて考えてみて欲しい。本当に「最初はグー」は必要なのかどうかを。

現代のジャンケン事情を鑑みるに、「最初はグー」はジャンケンとほぼセットだと言って良い。いきなり「ジャンケン……」とやろうものなら、「最初はグーでしょ!」と怒られかねない始末だ。そんなことはどうでもよい。ただジャンケンをしたいだけなのに。

くだらない話だと吐き捨てたくなる気持ちはわかる。私もそう思う。最後まで何の結論もない。

しかしこれは、日本人の思考能力の衰えが生まれる可能性において、意外と重要な問題かもしれない。ジャンケンの醍醐味は「ジャン、ケンッ……」というコンマ何秒の間に思考を巡らせるところにある。相手の性格、クセ、生まれ育った環境、価値観、恋愛観、血液型、兄弟何人いるのか、芸能人で言うと誰に似てると言われるか、初デートにはどんな所に連れて行ってもらいたいのか……そんな数多くの要素を取捨選択しては、3種類の手から1つを選択する高度な思考活動だ。

ここまでのことを一瞬で考えるわけだから、脳への負担は尋常でない。その面で「最初はグー」をクッションとして入れたい気持ちは重々理解できる。

しかしどうですか。それによって、我々の反射的思考力はどんどん衰えていませんか。人間は、放っておく楽な方に傾いていきますよ。すぐタクシー乗っちゃうし。

我々はそろそろ、ジャンケンのたびに発生する「最初はグー」の1秒あまりが、無為な時間であることを認識すべきだ。人生であと何回ジャンケンをするか分からないが、その積み重ねは3、4年になるはずである。これはもうちょっとした懲役だ。人生は短い。一生のうち3年を「最初はグー」と過ごして、果たして君はいいのか。

2015-10-20T23:06:59+00:002015年10月20日|Categories: 日々, 経済・社会|

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