文章を書けば書くほど、母国語が英語であればと思わされる

2015-08-16T23:29:46+00:002015年8月16日|Categories: コミュニケーション, 日々|

その善し悪しは置いといて、一応文章を書いて対価を頂く生活をしている。 そして当然ながら、それらのほとんどは日本語だ。ひたすら2バイト文字を叩いてスペースキーで変換する度に、あぁ母国語が英語であったらなと思うことがある。 それは親指が痛いからではなく、発信する先が常にインターナルであるという葛藤があるからだ。 絵やスポーツと同じで、文章も書くほど上達する。これは間違いない。自分に置き換えても、書く度にその練度は上がっているはずだ(そうでないとマズい)。しかしそうだとしたら、私が日々うまくなっているのは「日本語」という、世界で70人に1人しか理解できないニッチな言語であるというジレンマがつきまとう。どんな種目でもオリンピックに出て金メダルをとるのはすごいけども、どうせなら陸上100mで勝負をしてみたかった、というようなそんな気分である。 勉強すりゃいいだけだろ、というのは至極もっともな意見で付箋に書いてディスプレイに貼りたいくらいなのだが、しかし生まれた時からの母国語としているか否かの違いは、想像以上に厳然としてそこにある。私が今後どれだけ勉強して英語の文章力を上げていったとしてもそこには限界があり、努力ではどうしても越えられない壁がある。例えて言うなら、今からいくら練習してもプロ野球選手にはなれないのに近い。 たとえば山本周五郎が英語圏に生まれていたら、彼の作品はもっと多くの人に読まれていただろう。たとえばカズオ・イシグロがあのまま日本で育って作家になっても、もちろん素晴らしい作品を書いたろうが、今ほど世界中で評価されていないはずだ。確かに、原文より優れた翻訳や翻訳家がいるのは事実なのだけどもそれは別として、書き手が一文字単位で魂を込めて書いたり削ったりした文章を、多言語にすべて正確に再現できるとは私は基本的に思っていない。 なので、優れた日本人作家や文章家を見るたびに、この人が英語圏に生まれていたらどうなっていたろうと想像してしまう。もっと多くの人に読まれ、評価されていたのではないかと。作家にとってもっとも重要なのは感性やものの見方だろうが、その表現手段としての言語に何が使われても違いはないだろうから。 言葉や宗教、文化的背景が異なる人と接する際にもっとも重要なのは、自身のそれにどれほど造詣が深いかであると言われる。同じように、言語と文化は切り離せない関係にあるのは間違いない。日本人の感性は日本語でしか表現できないだろう。 しかし、Webの登場などで狭くなった世界の中で、言語を単純な伝達手法、「記号」としてのみ捉えるのであれば、最大派閥に加わることで被るデメリットはほぼない。確かにその分ライバルも増えて競争は激しくなるかもしれないが、はじめから競技に参加していないのとはやっぱり違う。 結論、「英語の勉強は大事」ということをネチネチと回りくどく言っただけに過ぎず、こんな後ろ向きなことを表明したところで何の利も得ないしむしろ今後の仕事に響くのではないかとビクビクしているが、まぁそれはそれでいいのである。